学部のころ

第1回  日本語教育との地味な出会い

実は、私は初めから日本語教師を目指して大学に入った訳ではありませんでした。

大学で選んだ学部は教育学部。それで、3年までは、ただ漠然と「将来は教育関係の仕事に就きたいなあ。」という感じでした。

教育に興味があったのは、もともと勉強もそんなに嫌いではなかったことと、地元の国立大学で教鞭をとっていた親戚のおじさんの「日本は土地も狭いし天然資源もない。でも、教育資源は豊富にある。この教育資源こそが一番の強みなんだよ。」という言葉が、頭のどっかにあったからでした。

そうすると、普通は教職の道に進むと思うのですが、私の場合、それはありませんでした。教職にはあまり魅力を感じなかったからです。

教職というと、しがらみが多そうだし、小生意気な生徒を相手にしなきゃならないし(自分がそうだった。)、あんまり自分が出せそうな仕事じゃないな。当時はそんなイメージを持ってました。

それで選んだ専門は教育哲学。当時は全く人気のない所だったので、ここに入ってくる者は、よっぽどの物好きか成績不振で振り分けられた者かのどちらかです。私はその両方でした。

まあ、せっかく大学にいるんだから哲学気取りもいいかな。

そんな時、確か3年に上がる時の3月だったと思います。日本語教育に出会いました。といっても、雑誌かなんかでさらっと見ただけです。でもその時、「あ、これいいかも。」って思いました。

進路の選択なんて、案外そんなものかもしれません。

第2回  日本語教育を選んだ安直な理由

その時は、日本語教師というのは教育職だし、教職よりもしがらみが少ないようだし、なんとなく自分にあっていそうな感じでした。

しかも、世界が舞台なので職に困るということはないだろうと、勝手に思っていました。世界中で自分の椅子が一つあればいいんだ、と。

市場規模(あくまでも地理的なものだけです。)も教職なんかよりはるかに大きいだろうから、やりようによったら、いい生活ができるかも…。

当時は、日本語教師の待遇があまりよくないことや、日本語教育の市場規模がいかにちっぽけなものであるかなど、全く知りませんでした。

所詮20代前半の若造の考えること。たかが知れています。今思えば本当に恥ずかしいくらいです。

これならできる。できる、できる。

当時の私にあったのは、こんな根拠のない自信だけでした。

早速、私は大学で日本語教育の授業がないか調べてみました。そしたら教育学部ではなく、文学部でO先生とS先生が授業をなさっていました。

というわけで、3年の春から文学部の学生に混じって授業を受けることになりました。

これが、私の、日本語教育の空気に触れた最初です。

当時の私にあったのは、正に単純な思い込みと勢いだけでした。でも、若い時ってそれが一番の武器なんだと思います。

それで道が開ける時もあるんもんだと思います。

第3回  なぜ教育哲学をやめたか

3年から、日本語教育の授業を受け始めたとはいうものの、所属はあくまで教育学部教育哲学専攻だったので、授業の大半は哲学関係でした。

で、どんな授業かというと、アリストテレスの何とかという文献を、院の先輩の手ほどきのもとで読んでいくとか、正法眼蔵(道元が書いた書物)を読んでいくとか、マイスターエックハルト(ドイツの神学者)の書いた何とかって本を読んでいくとか、とにかく古い哲学書をひたすら読んでいくといったものでした。

授業はそれなりにおもしろかったのですが、ただ教育とはまるで関係がありませんでした。

ゼミは、院の先輩も含めて実にアットホームな感じで、授業も、時々喫茶店やビアホールでやってました(勿論先生の提案です。)。それで、ドイツ語の文献購読が適当に終わったら、先生や先輩のおごりでコーヒー飲んだり、ご飯を食べたりしていました。

ビール飲んでるサラリーマンの横で、哲学書を読んでいたわけですから、今思えばちょっと異様です。でもその時はそれが普通でした。少なくとも教哲ゼミでは…。

そうこうしているうちに、段々卒業後の進路を考える時期になり、これからどういう道に進もうかと考えたときに、「教育哲学では飯が食えないな。」と思ったわけです。

就職先もかなり限られているし、哲学で何かができるほど、私は頭がよくないと思っていたので、「この道はやめよう。」と思いました。

それから日本語教育にグーーッと気持ちが傾いていきました。

第4回  大学院を目指す

文学部で日本語教育の授業を受けていたといっても、将来日本語教育でやっていこうと決めたのは大学4年になってからでした。

周りの仲間は4年の6月頃にはもう一部上場企業から内定の2つ3つはもらってて、どれにしようかといった雰囲気だったと思います。バブル崩壊直後でしたが、まだあまり影響はなかった感じでした。

で、私のほうはというと、就活は全くしていませんでした。「自分は組織にはまるタイプじゃないな。」という漠然とした感覚と、あと、想像できなかったんですね、自分が就活している姿というものを。

それで将来どうしようかって考えてみると、やっぱり日本語教育しかないなと思ったわけです。

そう思うと、後はパタパタパタと頭が働いて、それなら大学院に行くしかない、今からの準備なら1年留年するしかない、目指すは広島大学。あとはゴールに向かって走るだけ。こんな感じです。そうなると、俄然やる気ができてきました。

どうして大学院を選んだかというと、当時の私の友人の多くは工学部の連中でした。

理系は文系と違って90%以上が大学院に進みます。大学院まで行かないと専門家として使い物にならないからだそうで、学部卒だと思うような就職は期待できないというのが常識でした。

そんな彼らを見て、私は「文系もいずれそうなる。」と思いました。特に専門性の高い日本語教育は、せめて修士はないと先は暗いと思ったわけです。

次に、どうして広島大学を選んだかというと、やはり教育系といえば、「西の広大、東の筑波」なわけですが、筑波大は剣道部の遠征で行った時、えらい田舎にあったのを覚えてて、「あそこは避けたい。」と思ったのと、広大は定員の約半数を学外からとっていたので、「これは有利。」と思ったからです。

それで早速、広大にいる高校時代の友人に頼んで、過去問を送ってもらうことにしました。

思えば、矢沢永吉の言葉ではありませんが、人間生きる方向を失うときついものがあります。幸い、私はこの時日本語教育という明確な方向を手に入れました。これは、何ものにも代えがたい財産だと思います。

第5回  院試対策その1-教材選び

友人に送ってもらった過去問を見ながら、「さて、これからどうやって勉強しようか。」と考えました。

当時の広大の院試科目は専門科目と外国語です。外国語はいくつかの中から好きなものを1つ選ぶわけですが、普通の受験生なら迷わず英語を選ぶところです。

そこで、英語の過去問を見たところ、問題を見ても何のことやらさっぱり分かりませんでした。当然レベルも高いし、出題形式もバラエティにとんでいます。これじゃ今から勉強しても間に合わないだろうし、万が一いい得点をとっても英語では差はつかないだろうと思いました。

それで、私はドイツ語に決めました。これでも一応教育哲学出身です。授業ではドイツ語の哲学書なんぞも読んできました。ブーバーの「我と汝」も原書を独学で通読したこともありました。

過去問を見ると、10行ぐらいの文章がいくつかあって、「日本語に訳せ。」という、実にシンプルなもの。

「これなら、とりあえず単語を2~3千覚えれば何とかなる。」と思いました。ドイツ語の受験生なんてほとんどいないだろうから、あわよくば下駄を履かせてもらえるかもしれない。

というわけで、学科の助手の先生に事情を話して参考書を紹介していただきました。紹介していただいたのは上下2巻の問題集でした。著者名が「横山やすし」だったのには、さすがに笑ってしまいました。(勿論同姓同名の別人です。)

さて、次は専門科目対策。先輩に文学部日本語教育学科の方がいたので、その方に聞いてみました。で、紹介していただいたのが大修館書店の『日本語教育ハンドブック』でした。600ページもある結構重たい本です。「うっ。」とその時思いましたが、先輩曰く「これぐらいこなさないと院は無理よ。」。まあ、3~4回読めば何とかなるか。そんな感じでした。

(なお、この話はもう10年以上も前の話なので『日本語教育ハンドブック』が今の院試に通用するかどうかはわかりません。ご自身で判断してください。)

それから公立図書館での勉強が始まりました。卒業単位はほとんど取っていたので、時間だけはたっぷりあります。

「もう後戻りはできないな。」そんな考えが当時の私を院試の勉強へと突き進めて行きました。

第6回  院試対策その2-過去問から見えてくるもの

教材が決まれば、あとはひたすら勉強するだけです。近所の公営図書館に通う日々が続きました。

受験のプレッシャーがないといったら嘘になりますが、卒論以外は他にたいしてすることもなく受験勉強に打ち込めた当時の私は、「これほど環境に恵まれた受験生はそういないだろうから、普通にやっていれば落ちることもないだろう。」と、その日の勉強が捗ろうが捗らまいが、根拠のない自信だけを勝手に膨らませていました。

そうなると完全に自分のペースで進めていけます。

先輩に紹介してもらった『日本語教育ハンドブック』も、一読目こそ手こずりましたが、3回目ともなるとそこそこ余裕をもって読め、5回目になる頃にはもはや惰性の域でした。

また、広大の友人から学部の授業シラバスも送ってもらい、教官が授業で使っているテキストをリストアップして本屋から取り寄せ、これらも一通り目を通しました。

そんな勉強の合間に食べた館内のレストランのカレーライスは実においしかった。当時の私は、とにかくなんか食ってれば機嫌のいい男だったので、カレーのおかげで、割と楽しく勉強を進めることができました。

それから、当然のごとく過去問にも目を通します。当時の専門の試験の出題形式は、はじめが12個ぐらいの専門用語の意味を簡単に説明するものでした。次が150字程度で説明する問題が数題。それで最後の2題ぐらいが400字程度で説明したり自分の意見を書くものだったと思います。

過去3年分に目を通しましたが、出題形式に大きな変化はなかったので、対策も立てやすかったのを覚えています。

そんな中、過去問を検討している中で、妙なことに気がつきました。当時の広大日本語教育の教官は10名程度いらっしゃったと思いますが、ある先生の研究分野は、ほとんど院試に出題されることがない。あっても最初の小問でちょこっと出るだけ。

一方、ある先生の研究分野は毎年大問で出る。おもしろいぐらいに毎年出てるわけです。

「これって、教官の勢力地図?」 

試しに、問題の出題傾向と教官の役職とを照らし合わせてみてみると、これまたおもしろいぐらいに符合するわけです。大御所・中堅・異端児、と言ったら失礼ですが、割にはっきりと力関係らしきものが見えてきたのです。

実際、院に入学して院の先輩や生え抜きの同期からいろいろ話を聞くと、入学前の予想と概ね一致していました。

そう考えると、院試問題というのは、問題以上にいろいろな情報を含んでいるものなんだと思います。大人の世界をちょっと垣間見たような感じでした。

第7回  院試対策その3-小論文攻略法

大学院の入試問題、特に専門科目では、小論文形式の出題がかなりを占めるので、小論文対策も欠かすことはできません。

といっても、専門が異なる私の場合、小論文の練習そのものにそんなに時間を割くことはできませんでした。やるべきことは山ほどあります。

実をいうと、私は、作文は大の苦手です。今でもそうです。これは本当です。高校時代、読書感想文を出さなかったばっかりに、1ヶ月間、現代文の時間だけ廊下で勉強させられたこともありました。それぐらい、どうしようもなく苦手でした。

でも、そんな私も、大学時代、同じ寮に住む1つ上の法学部の先輩からすごくいい方法を教えてもらったおかげで、400字ぐらいの小論文ならおもしろいぐらいに書けるようになりました。(随分昔のことなので、多少違っていてもご容赦ください。)

ちなみに、当時私が住んでいた寮は、いわゆる自治寮でした。自治寮というのは、大学の寮でありながらそこに住む学生が管理運営する寮のことで、学部を超えた学生間の交流が活発なのが特徴です。だから、専門外の知識や情報もどんどん入ってきました。その代わり、個人のプライバシーはあまり守られなかったけど……。

それで、その論文攻略法とは、先輩曰く、「法的三段論法」。(実は、後で調べなおした所、「法的三段論法」は小論文の書き方とは全く別の代物であることがわかりました。といっても、優れものであることに変わりはありません。)

先輩の話によると、司法試験対策としても一般的によく使われているそうで、大抵のテーマなら確かにこれでOKです。特徴は、5段落構成で、各段落の文のパターンと論の展開が予め決まっていることです。

だから、テーマに沿って、予め決まった論文パターンに、適当に文をはめ込んでいけばいいわけです。

例えばこんな感じです。

例)
「若者の言葉の乱れについて思うところを書け。」

第1段落
「一般に/近年、~~は~~と言われている。」
例)
 近年、若者の言葉がとみに乱れていると言われている。特に女子高生に対する批判の類は、枚挙に暇がない。

 ここでは、小論文のテーマに関する一般論、よくある意見などを書きます。

第2段落
  「確かに、~~。」
例)
 確かに、彼女達の使う日本語には理解できないものも多い。彼女達のメールにいたっては、一見、日本語というよりどこかの軍の暗号ではないかと思わせるものも少なくない。『問題な日本語』が多くの支持を受けるのも、それなりの社会的背景があるからだろう。

 第1段落で述べた一般論を支持する意見や事実を並べます。一般論に対して「それなりに理解しているよ。」と言う姿勢を見せます。

第3段落
  「しかし、(本当に)~~いいのだろうか。~~。」
例)
 しかし、そういったことで一概に若者の言葉が乱れていると片付けてしまっていいものだろうか。
 ある調査によれば、敬語の使い方のテストでもっとも成績が悪かったのは、男女とも50代だったそうだ。
 また、若者言葉についても、いわゆる俚言・符丁・位相語ととらえればごく自然な言語現象であり、ことさら若者だけが批判の対象になるのは、あまりに不公平というものである。 社会言語学においても、この種の現象は、「乱れ」ではなく「生きた言葉の動的変化」ととらえるのが一般的だ。
 第一、言葉の乱れを危惧する今の年配者も、かつては言葉を乱す若者ではなかったか。

 ここでは、一般論に対して疑問を投げかけ、(あなたの真の意見とは関係なく)正反対の意見を出します。そして、第2段落で書いた一般論を支持する意見や事実を完膚なきまでに論破します。(論破しきったときの爽快感はたまりません。)

第4段落
  「思うに、~~。」
例)
 思うに、この種の議論は、社会的に権力があって批判の対象になりにくい年配者層の、社会的弱者で反論しにくい若者に対する、一種の心のはけ口として利用されているように感じられる。これでは、単なる弱いものいじめであり、若者はたまったものではない。そういった年配者の態度の方にこそ、より強い不信感を抱いてしまうのは、私だけだろうか。

 第3段落では、理詰めで攻めました。ここでは、読み手の感情に訴えます。それにより、読み手の共感を引き出して、一気に自説の支持者へと引き込みます。

第5段落
  「従って/つまり、~~。」
例)
 つまり、「若者の言葉の乱れ」論議の多くは、社会的な優劣を下敷きにした、極めて一方的なコミュニケーションスタイルでなされているというところを、我々は見逃してはならないのである。

最後に、結論でバシッとしめます。不思議なことに、第1段落から第4段落へ書き進めるに従って、自然と結論の内容が浮かび上がってきます。書きながら、頭の中で自分の意見や話の内容が整理されてくるからでしょう。

まあ、ざっとこんな感じです。はじめは慣れないかもしれませんが、4~5回練習すれば、自信を持って試験に臨めると思います。

私も、院試の小論文は、ほとんどこのパターンで書きました。

それにしても、人との出会いというのは、大きな財産だと思います。

第9回  院試本番その2-行くか?行けるか?

前日のプチショックからもなんとか立ち直り、私は受験のためキャンパスに向かいました。

ちなみに泊まったところは、西条駅から程遠いユースホステルでした。一番安かったからです。で、このユースホステルは新幹線が停まるJR東広島駅の近くにあったのですが、この駅がまたえらい辺鄙なところにあって、「こんなとこから誰が乗るの?」といった感じでした、当時は。

大学に着いて最初に違和感を覚えたのは、大学の建物がすべて真新しくて、そのいたるところに丸みを帯びていることでした。

それまで5年もお世話になった東北大の建物は、ほとんどが年代物(中には木造建築)で、しかも私がいた川内キャンパスの建物は、実に地味でカクカクな直方体。しかも、壁のいたるところに「日帝」だの「民青」だの「三里塚」だのが書かれたおびただしい数の張り紙が貼られていて、それはそれは汚らしいところでした。

かたや広大には、そんな張り紙などあるはずもなく、しかも建物もそこかしこが流線型です。そんな中をおしゃれな女子大生が歩いているわけです。

「同じ大学でも、こんなにイメージが違うものか。」「ここで2年か。」

あまりの清潔さに微妙な違和感を覚えながら、私は試験会場に向かいました。

試験会場は結構大きい階段教室で、複数の専攻の試験会場になっていました。私が受ける日本語教育学専攻は、確か向かって最右側の2列だったと思います。

受験者を数えてみると24名。定員は12名でしたから競争率はちょうど2倍です。

「隣の人よりできれば、合格だな。」

一応自分の中では筆記対策は万全だったので、ほとんど緊張感はありませんでした。 

 
実際、専門科目も外国語もだいたい予想通り。手ごたえは十分でした。

しかし、問題はその後の面接です。面接では研究計画書の内容について聞かれます。院試の勉強しかしていなかった私にとっては、面接対策はほとんどゼロでした。(しかも私の研究計画書というのが笑ってしまうほどでっちあげに近いもので、今思い出すだけでも赤面するような内容でした。)

面接会場に入ると、専攻のほとんどの先生方(10数名いらっしゃったと思います。)が受験生1名を取り囲むような形でずらりと座っていました。

その時のことは緊張していたのであまり覚えていませんが、確か面接内容は散々だったと思います。当然といえば当然です。

「まあ、筆記がよかったからなんとかなるか。」

すべての試験が終わった後、私はそう気を取り直して仙台に戻りました。

最終回 さよならトンペイ、さよなら仙台

院試から1ヶ月かそこらたつと結果が出るわけですが、広大の場合、通知などはなく、ただ棟の入り口に合格者の名前が貼り出されるだでした。

それで、私は広大にいる高校のときの同級生に、代わりに見に行ってもらいました。

寮の電話口で「名前あったよ。」と聞いた時には、さすがにホッとしました。

その頃はひたすらバイト漬けの毎日で、とにかく滞納していた寮費と引越し費用、そして当面の生活費を稼ぐことだけ考えていました。

「院の勉強は院に入ってから。」そんな感じでした。

と同時に、「トンペイも仙台もこれで終わりかあ。」そんな気持がこみ上げてきました。(東北大学は通称「東北(トンペイ)」と呼ばれていました。)

なにせ5年もいたところです。愛媛は松山南高校から東北大学に進学したのは同期の中で私だけ。(まだ北大の方が多いくらいです。)私にとっては、初めて愛媛県民以外の人間に囲まれながら生活した土地です。

思えば、初めて新幹線でJR仙台駅に着いて、寮に向かうべくタクシーに乗った時、「東北大学以文寮まで。」といったら、運転手に「おめぇさんの日本語さ、さっぱりわかんね。」と言われた。

寮は2人部屋。私より先に着いていた市立船橋出身の医学部生に、「これ、おれがもらうからな。」と、前の住人が置いていった猫の毛まみれのマットをとられ悔しい思いをした。

しゅんとなって、ベニヤで囲まれた洋服かけの戸を開けると、1円玉、5円玉、10円玉が山ほど入ったビニール袋を見つけ、「じゃあ、これは俺のもの。」と、懐に握り締めた。翌日銀行に行ったら5000円ぐらいになった。

剣道部では、本格的に一から剣道を教わった。師範は全日本選手権で審判委員長を務めたこともある堀籠先生(範士八段)だった。

剣道部の先輩の命令で、私は途中から常任委員(体育会の中の生徒会のようなもの。)に入った。でも、それが縁で、いわゆる旧七帝大に多くの仲間ができた。北はススキのから南は中洲まで、大学の金で随分飲み歩いた。

教育哲学科では、院の先輩から随分可愛がられた。

部活の後は、朝4時までラーメン屋でアルバイトをした。仕事が終わった後、仲間でメシを食べに行ったら、店で仕事帰りのオカマ7~8人に囲まれた。

夏休みには、松島のホテルで2週間住み込みのアルバイトをした。ブラジル人の夫婦からシーツのひき方を教わった。

そして、日本語教育と出会ったのも、この仙台だった。

こんな一つ一つの経験が、そろそろ仙台を去るかという時になって、今更ながら実にいとおしく思えてくるのでした。

2月、3月ともなると、あっちこっちで追いコンに呼ばれました。

学部の謝恩会に出席した時、教育哲学の先生で私の卒論の主査をしていただいた先生から、「もう、教育哲学には戻れないな。」と言っていただきました。

その言葉が、私の背中を強く後押ししてくれているようで、なんともいえない気持ちになりました。

その先生とは、今でも年賀状程度のおつきあいがあります。年賀状で定期的に現状報告することが、私なりのささやかな恩返しかなと、勝手に考えています。

振り返ってみれば、私の大学生活というものは、授業で、剣道部で、バイト先で、常に自分の至らなさや未熟さというものを突きつけられ続けた5年間だったような気がします。「前略おふくろ様」の最終回ではありませんが、「毎日が憂鬱で、それでいてはりがある。」そんな毎日が積み重なった5年間でした。

私のような人間にはそういう時期も必要なのかなと、今にしてみれば、そう思えます。

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