Can-Doも万能ではないと心得る。
日本語教育、特に日本語学校は今、
『日本語教育の参照枠』
対応に迫られています。
また、それと相まってCan-Doベースの
授業への支持が高まっているようです。
それはそれで結構なことですが、
こういう時こそ、冷静に物事を判断し
ないといけないと考えています。
私も、これまで日本語教育界を30年近く
見てきましたが、
その時々は金科玉条のように見えても、
しばらくして改めて見つめ直すと、
「結局流行り廃りだったな。」
と思うことが少なくないからです。
日本語教育の出発点はあくまでも
学習者のニーズ。
学習者が文法を勉強したいと言えば
それを教えればいいし、
会話を勉強したいと言えば、それを
教えればいい。
それを、
「これからはCan-Doだから。」
といって、それを優先させてしまえば、
それは単に教師のイデオロギーの押し
付けでしかありません。
また、Can-Doベースの授業をすれば、
確かに課題達成能力は上がるかもしれ
ません。
ですが、その分、言語の正確さの低下や
言語知識の習得が鈍化しないよう、
十分配慮する必要があります。
というのも、実際にCan-Doに沿った
パフォーマンステストをやってみると
分りますが、
目標があくまでも課題達成にあり、
言語の不十分さよりも課題達成
の有無を優先する評価をしますので、
新たに言葉や表現を覚えなくても、
何となく課題をこなし、得点できてしまう
という側面があるからです。
そうするとどうなるかというと、
正確な言語知識の能力が伸びにくく
なってしまい、
例えば、日本語能力試験や、
進学先(専門学校や大学)の入試で
上手く得点できないということになる
わけです。
実際、現状では『日本語教育の参照枠』
と進学先の入試判定は連動していません。
入学願書に「B1」とか「B2」と書かれても
それを理解できる大学関係者はそういない
と思います。
誤解がないように言いますが、
Can-Doベースの授業やカリキュラムを
否定するつもりはありません。
それによって、
「N1に合格しているのに全然話せない。」
的な問題をある程度解決できると期待
できるからです。
ただ、それもまた万能ではなく、
メリットとデメリットの両方ある、
そのため冷静に現状を把握し、
冷静に判断し、冷静に行動する、
という、
極めて当たり前のことを改めて
認識する必要があるとお伝えしたい次第。
私達が見るべきは、あくまでも学習者
なので。