バブル期の新卒ブランドを捨て敢て茨の道を進んだ男の話(その2)
院試の勉強が功を奏してなんとか広島大学
大学院に入学したものの、
当時の広大は広島市から東広島市という超
ド田舎に移転している最中で、
それはもう、(当時)すごいド田舎。
幹線道路からちょっと脇道にそれると、
もう土むき出しのガタピシした道。
アスファルトさえ敷いていない。
私はてっきり、広大は広島市にあると思って
いたので、院試で初めて東広島キャンパスに
来た時には、愕然としました。
入学して、先輩の院生から受けた最初の
アドバイスが、
「この辺、イノシシが出るから気をつけて。
最近、車と衝突する事故があったのよ。」
はぁ?
しかも、広島で初めてやったアルバイトが
なんと雪かき!
そんなの、仙台でもやったことない!
授業を受けると、まったくついて行けない。
聞いたことのない専門用語がバンバン出る。
同期の院生は、みな学部から日本語教育の
勉強をしてきた連中ばかり。
一方、私はたった一年の、しかもたった1冊
の参考書をマスターしただけの、薄っぺらい
知識しかありません。
知識の差は歴然です。
「こんなはずじゃなかった。。。」
ひどいカルチャーショックと強烈な劣等感。
はじめはさすがに
「場違いなところに来てしまった。」
という思いに頭をもたげましたが、
そうはいっても、いまさら引き返すことなど
できるわけもなく、
ただただ自分が選んだ道をとぼとぼと歩いて
行くしかありませんでした。
それでも、半年が過ぎ、1年が過ぎていく
うちに、だんだんまわりが見えるようになり、
だんだんと自分を支えてくれる人が増え、
素晴らしい恩師や先生方にも出会い、
なんとかお情けで卒業させていただくことが
できました。
入学したころは、「人生最悪の黒歴史」と思う
ほどでしたが、
今思えば、そういう経験があったからこそ、
▼異文化の中に身を置いても、だいたい抵抗
感なく受け入れることができるようになり、
▼そのことが、文化だけでなく、新しい分野
や未知の領域にも抵抗感も迷いもなくチャ
レンジする心構え
を手に入れることができました。
要は、異文化間トレラレンスというか、今風に
言えばレジリエンスが身についたんですね。
今でも、会社を興したり、ZOOMやったり
YouTubeチャンネル開設したり、株式投資したり、
いろいろなことにチャレンジしていますが、
そうした素地は、まさしくこの時期に涵養した
ものなのです。
それだけではありません。
圧倒的な劣等感を経験することによって、
同じ境遇の人ならだれでも持つであろう
「自分だけがわかってない。」
という何とも言えない孤独感を理解する
ことができるし、
分からない人に対して、どういう言葉で
説明すれば分かるようになるかも、私自身の
実体験を通じて、分かるようになりました。
このことは、例えば、篠研会員様との接し方や、
通信講座の講義資料の執筆に大いに役立って
います。
もちろん、広大に入学して悶々としていた時に、
20年以上も経ってこのような形で自分の人生に
プラスに跳ね返ってくるなどとは、想像すら
できなかったわけですが、
今となっては、その経験が精神的にも経済的にも
今の自分を大きく支えているのは間違いなく、
そう考えれば、ふいに身に降りかかる苦労を
「思いがけない不遇」
ととらえるのではなく、
「少し遠い未来への、しかもリターンの大きい
自己投資」
とポジティブにとらえるのが正しい認識では
ないかと思うわけです。
であれば、苦労は
「将来の豊潤な人生への、神が用意した粋な余興」
として、むしろ歓迎すべきだし、
逆に、苦労の一つもない人生ほどつまらないものはない、
とさえ思うのです。