「学び」とは、本来楽しくて、刺激的で、充実感に満ちたもの。
「学び」とは、本来楽しくて、刺激的で、充実感に
満ちたものであると、私は思います。
なぜなら、「学び」によって今まで知らなかった
ことを知り、
分からなかったことが分かるようになるからです。
これは、とても高次な喜びです。
ひとたびこの高次な喜びを知ってしまったら、
「やめられない、止まらない。」
という「かっぱえびせん」状態となり、
学 ぶ
↓
楽しい、刺激的、充実感
↓
もっと楽しみたい、刺激が欲しい、充実したい
↓
もっと学ぶ
↓
もっと楽しい、刺激的、充実感
↓
もっともっと楽しみたい、刺激が欲しい、充実したい
↓
もっともっと学ぶ
↓
もっともっと楽しい、刺激的、充実感
↓
もっともっともっと楽しみたい、刺激が欲しい、充実したい
(以下同様)
という好循環に入り、雪だるまの如く知識や
スキルが身についていくのです。
そして、気がついたら、勉強の成績も仕事の業績も
どんどん勝手に上がっていた。
ということになるのです。
かの孔子先生も
「子の曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」
とおっしゃっておられますが、「楽しむ者」とは
まさにこの境地に入った者のことをいうのでしょう。
さはさりながら、
いざ現実に目を向けてみると、
楽しくて、刺激的で、充実感に満ちた「学び」が
実現できているかというと、
必ずしもそうではないようです。
むしろ、「学び」は「勉(つとめて)強(しいる)」
よろしく
【難行苦行】
のようなものとなっているケースも少ないない。
本来はもっと楽しいもののはなのに、どうして
現実は苦しくて、続けるのがつらいものなのか。
かつての私を振り返ったり、あるいは篠研に寄せ
られるご相談やセミナーに参加なさった方々との
交流から、
その理由がなんとなくわかってきました。
続きは、次回に。