理にかなった授業をすれば無理なく楽しく効果的な授業を量産できる。
「理にかなった教育をすれば、
無理なく、楽しく、効果的な授業を
量産できる。」
そのように思います。
具体的には、
・学習者のニーズにしっかり寄り添い、
・それを的確に言語化した学習目標をたて、
・適切なカリキュラム、教材に沿って、
・インタラクションの豊富な授業を実践し、
・学習者の伸ばすべきところをあぶりだしては伸ばし、
・適宜、評価活動をしながら教育の微調整を行う。
これを愚直に進め、授業改善(PDCAサイクル)を
ぐるぐる回していけば、
いずれ、
「山のように補助教材を揃えなくても授業が
できるんだ。」
「変に凝った授業より、シンプルな授業の方が
うまく進むんだ。」
ということに気づき、
ほどなく、
「無理なく、楽しく、効果的な授業の量産体制。」
を確立することができるでしょう。
これを、
・学習者のニーズより教育者側の都合
・曖昧な学習目標。学習者にとって意味のない学習目標
・不適切なカリキュラム、教材
・教師の一方的な授業運営
・評価結果を活用しない、評価のための評価
おまけに、
・はじめに絵カードありき
・肉声より音声CD
・調べものはスマホではなく電子辞書か紙の辞書
・教科書至上主義
・授業中の母語使用完全禁止
・補助教材は多ければ多いほど、善
・教師の苦労が多ければ多いほど、善
のようなスタンスで行うと、
教育活動のどこかに無理が生じ、
教師も学習者もどこか窮屈で楽しくなく、
気がついたら学習効果よりも授業形式に
重点を置いている
そして、なにより教師がしんどい。
そんなとても風通しの悪い授業になって
しまうのではないか、
と思います。
「理にかなった教育をすれば、
無理なく、楽しく、効果的な授業を
量産できる。」
そんな体制に持っていくためには、
なにより、
「教育の理」
を十分納得できるレベルまで、
身体知としてインテイクする必要が
あるわけですが、
それを実現してくれるのが、
「日本語教育能力検定試験の徹底研究」
ではないか、
と、この頃つくづく思います。
なぜなら、検定試験に出題される内容というのは、
いわば、本業界の先人たちの
「知恵の結晶」
だから。
「こんな授業をするんだったら、
こういうところに注意しなさいよ。」
「こんなタイプの学習者は、こういうところが
弱いから、そこをこんな方法でしっかり
指導したらうまくいくよ。」
そんなことを問題形式で私たちに伝えて
いるのです。
先ほど掲げた
・学習者のニーズにしっかり寄り添い、
・それを的確に言語化した学習目標をたて、
・適切なカリキュラム、教材に沿って、
・インタラクションの豊富な授業を実践し、
・学習者の伸ばすべきところをあぶりだしては伸ばし、
・適宜、評価活動をしながら教育の微調整を行う。
も、言葉にすれば、それぞれ1行ですが、
その中には、たくさんのノウハウが含まれている
わけで、
それを、試験という形で伝承しようとしているのが
日本語教育能力検定試験なのです。
だから、検定試験の過去問を研究することは、
先人たちの知恵の結晶である
「教育の理」
を効果的に吸収する、最善の方法なんですね。
そして、そこで学んだことを教育現場に活用すれば、
どんどん、
「無理なく、楽しく、効果的な授業」
の量産体制を確立することができるわけです。
こういうと、
「現実はそんな甘いものじゃない。」
と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
それこそ教育現場のどこかに無理が生じている
証拠ではないかと思います。
「検定試験の過去問研究は、検定試験に合格するまで。」
という考えは、私に言わせれば全くもって誤った考えで、
「検定試験に合格し、教育現場に立ったからこそ
検定試験の過去問研究と現場へのフィードバック
を通じて
『教育の理』
を極めるべし。」
というのが私の考えです。
私が、各種検定試験対策セミナーやその動画コンテンツ
の中で、問題の背後にある教育現場にまで言及して
解説するのは、
そのような私なりの考えがあるからなのです。