基本は初歩ではない。
私の好きな言葉に、
「基本は初歩ではない。」
というのがあります。
私がこの言葉に出会ったのは、
高校生のとき。
当時、大学受験のために旺文社が
やっていた大学受験ラジオ講座
(通称:「ラ講」)を聞いていて、
(今もやっているんですかね。)
その時の数学の先生がよくこの言葉を
言っていました。
「一見複雑に見える数学の問題も、
よくよく見れば、基本の組み合わせ
です。
だから、基本はとても大切なのです。
基本は初歩ではありません。
常に帰るところです。」
それを聞いて、高校生ながらに感化され
たのを覚えています。
(そういう意味でも、受験勉強ってやっ
ぱり大事な通過儀礼だと思うんですよね。)
もちろん、今となっては数学のいろはは
すっかり忘れてしまいましたが、この、
「基本は初歩ではない。」
という言葉だけは、今でも頭に残って
いて、
私の指導方針の大きな柱のようになって
います。
実際、この言葉は、日本語教育の分野でも
かなりあてはまります。
例えば、上級レベルの学習者の誤用の多く
は、高度な文法の運用能力などではなく、
▼格助詞の使い方とか、
▼語彙の不適切な選択とか、
▼主語と述語のミスマッチとか、
▼動詞の活用誤りとか
といった初級レベルやごく基本的なもの
です。
あまりにも基本的であるがゆえに、
配慮がおろそかになり、結果、化石化
するんですね。
日本語教育能力検定試験でも大体同様の
ことがいえると思います。
例えば、受け身文。
直接受け身
間接受け身(迷惑の受け身)
非情の受け身
持ち主の受け身
と、小難しい用語がいろいろあります
よね。
それだけに、
「何が直接で何が間接か。」
「どうして『非情の受け身』と『持ち主の
受け身』が特殊な受け身と言えるのか。」
ということもわからないまま、ただやみく
もに用語だけを覚えていては、
風呂に入ってビール飲んでテレビを見れば
大体忘れてしまいます。
それよりも、
「日本語の受け身文は、原則主語に有情物
しかとらない。
じゃないと「~された」と思えないから。」
という基本がわかっていれば、
「なるほど。だから主語に無情物をとる
『非情の受け身』は特殊な直接受け身
なんだな。」
ということが、わかるわけですし、
「間接受け身(迷惑の受け身)は、原則
能動文に変換できない。
なぜなら、する人とされる人が直接的に
結びついていないから。」
という基本がわかっていれば、
「なるほど。だから、対応する能動文を
持つ『持ち主の受け身』は特殊な間接
受け身なんだな。
だけど、受け身の主語は原則有情物だか
ら、この時の受け身文を作るときには、
ちょっと注意が必要なんだな。」
ということが、わかるわけです。
つまり、基本がしっかりわかっているから
こそ、一見複雑なことにも理解がついてい
ける、
その分だけ応用が利くわけです。
だから、常に基本に戻るということが
大切なのですね。
(もちろん、基本だけやればいいという
意味ではありません。念のため。)
基本は初歩ではないんですね。