上を目指せば目指すほど、楽しくなる世界。
日本語教育というのは、
【上を目指せば目指すほど、楽しくなる世界】
です。
どういうことかというと、
例えば、420時間養成講座の通学や
日本語教育能力検定試験合格を目指して
いた頃は、
それはそれで充実していたと思いますが、
なかなか大変だった面もあったはずです。
ですが、ひとたびそのレベルを超えれば、
日本語教育に関する一通りの知識とスキル
を身につけ、
日本語教育に触れる前の、暗中模索の
段階から脱することができた。
そうすると、日本語教育が楽しいものに
感じられると。
ところが、いざ教壇デビューを果たすと、
これはこれで大変で、
「養成レベルの知識ではとても太刀打ち
できない。」
と感じて、必死になって日々の授業に
取り組むことになる。
私自身、駆け出しの頃、あまりの忙し
さに、
「この先に出口はあるのだろうか。」
と、途方に暮れた時もありました。
ですが、それも数年経つとだんだん
落ち着いてきて、
初級から上級まで一通りの授業が
できるようになると、
心に余裕が出てくるし、
学習者とのやり取りもスムーズに
いくようになって、
日々の活動が楽しめるようになる。
「もうこれでいいじゃないか。」
ところが、10年ほど前から、
その先にもっと楽しい日本語教育の
世界があることに気が付きました。
「一通りできる」レベルから突き抜け、
さらなる高み、
「驚き、感動、喜び、共感、納得」
を伴う授業を志向し、創意工夫を重ねる
ようになると、
目の前にいるうつろな目の学習者が、
みるみる生気を取り戻し、
どんどん授業に前のめりになり、
教師も学習者も深い喜びに満ちた
授業、関係性を築けるようになる。
私がこうしたことに気づけたのは、
セミナーや勉強会を通じて、
各分野一流の先生方の教えを受けて
きたから。
自分よりちょっと上の先生ではなく、
いわばてっぺんにいる先生から直接
教えを乞う。
そうすると、数ある雑多な情報の
中から、
「これこそ、扇の要。センターピン。」
たる情報を見極めることができるん
ですね。
(実際、セミナーや勉強会といっても
しっかり栄養価の高いものもあれば、
その場しのぎの清涼飲料水的なもの
ありますから。)
そして、そのレベルに至ると、余計な
情報に時間を食われることもなく、
なおかつ、常に知的に満たされ、
自由自在
縦横無尽
千変万化
「驚き、感動、喜び、共感、納得」
に満ちた授業を無限に生み出すことが
できるようになるのです。
ここまでくると、もはやどれだけ
授業をしても疲れない。
楽しくて楽しくて仕方がない。
つまり、日本語教育というのは、
【上を目指せば目指すほど、楽しくなる世界】
なんですね。
ところが、多くの日本語教師の方の
話を聞いてみると、どうやら多くの方が、
「もうこれでいいじゃないか。」
のレベルで諦めている様子。
いや、本人にはそのような自覚はなく、
時間を見つけて、セミナーや勉強会に
参加しているのですが、
問題は、そのレベル感。
いろいろな方の話を聞くと、どうやら
「今の自分を肯定してくれるような
セミナーや勉強会を選んで参加して
いる。」
ようなのです。
結局、一時的な満足感は得ても、時間ばかり
食って、内的変化が1mmも生じない。
(清涼飲料水をいくら飲んでも
大した栄養にならないのと同じ。)
それでは、上の世界は見えませんし、
「驚き、感動、喜び、共感、納得」
に満ちた授業にたどり着くことなど
できません。
まさに徒然草にある「仁和寺にある法師」
「極楽寺、高良などを拝みて、
かばかりと心得て帰りにけり。」
-第五十二段
なんですね。
つくづくもったいない。
繰り返しになりますが、
日本語教育というのは、
【上を目指せば目指すほど、楽しくなる世界】
です。
ただ、そのためには、やはり上の世界
もっと言うと、てっぺんの世界をみる
ということが絶対条件なのです。