規範にこだわりすぎたラテン語の末路。
ここしばらくNetflixにはまっています。
先日も、「テルマエ・ロマエ」と「同II」
を堪能しました。
(ちなみに、今は「イカゲーム」にはまり中)
ところで、
かつて古代ローマ帝国には数多くの言語が
存在していましたが、
ローマの支配領域で書き言葉を持っていた
のはラテン語だけでした。
したがって、行政、軍事、文化に関する
記録はすべてラテン語で行われていた
わけです。
かくして、ラテン語はローマ一帯に広まり
ました。
現在のイベリア半島のスペイン語、ポルト
ガル語、フランス語、プロヴァンス語、
イタリア語
さらにルーマニア語などもラテン語起源の
言語です。
しかしながら、
かつて広い範囲で使われていたラテン語も、
現在では誰も使う人はおらず、滅んでしまっ
た。
なぜ、滅んだのでしょうか。
田中克彦『言葉と国家』岩波新書
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にこのように書かれています。
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ラテン語はさまざまな諸言語を話す人たちの
上に帝国の言語として君臨し、その下の言語
を見えなくさせていた。
かつてギリシャ語が唯一の言語であったとす
れば、ラテン語は唯一の書きことばであった。
そのラテン語の地位を保障していたのはローマ
帝国の政治権力と、それから派生する文化的
威信であった。
もちろんラテン語を正しく書くということは、
非ラテン語を母語として用いていた諸族にとっ
てはなみたいていのことではなかったから、
かれらの日常言語の素顔が出て、じわじわと
ラテン語の規律を乱していった。
この乱れの蓄積が、ついにはラテン語から分離
した独立の言語の成立へと道をひらくことに
なったのである。
ラテン語は普及していけばいくほど、日常生活
のなかで多くの人に用いられれば用いられるほど、
そのなかには、古典的な硬さを失った、日常語
の影響を受けた形が入り込んでいく。
またその使用人口が増えれば増えるほど、
ラテン語はその通俗形式の侵入を許さざるを
得なかった。
このような変化をこうむっているために、なお
もちこたえている古典ラテン語の規範からみて、
ずれた方向にすすんでしまったラテン語のこと
を「俗ラテン語」と呼ぶ。
そこで、読み書きできる階層のなかにも、より
高い教養があってきちんとしたラテン語を書け
る人と、
教養の低さのために俗ラテン語しか書けない人
との差が次第に開いていく。
そうすると、きちんと書ける人は、俗ラテン語を
書く人たちの文法的な誤りなどをあげつらって
嘲笑するであろう。
ところが皮肉なことに、ラテン語が崩れていく
かたちを笑った
「その瞬間にラテン語はとどめをさされて死んだ」
マウトナー)
のである。
ことばがくずれていくのは、それが生きている
証拠である。
生きていくためには変化しなければならない。
死んだ言葉は決してくずれず、乱れることがない
のである。
(pp.33-34)
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言葉というものが生き続けるためには、
変化、ある意味崩れていく必要がある
わけなんですね。
例えば、私たち日本語教師が教室で学習者に
日本語を教える場合に、
基本的には規範的な日本語を教えようとします。
わざわざくずれた日本語を指導しようとは思わない。
しかしながら、
教師の規範意識があまり強すぎると、どうなる
でしょうか。
特に日本に住んでいる学習者は、普段使っている
日本語との乖離を感じて
教室で学んだ日本語を使えなくなる、
あるいは窮屈に感じるかもしれません。
とはいえ、あまりにも規範から外れ、周囲に
不快感を与えるような言葉を良しとするわけ
ではありません。
しかしながら、
そもそも人間というものは、
ある時は心の中を規範的な言い方で表現し、
あるときは規範から外れた形で、自分の思いを
生き生きと表現しようとする。
そして、
規範から外れた表現に共感者が多ければ、使う
人が増え、
新たな規範となって、言語の歴史を形作っていく
わけです。
そう考えれば、
今の文法のルールから外れているという理由だけ
で俗な日本語の言い方を拒否したりするのは、
もしかしたらいきすぎなのかもしれないですね。
そもそも文法的な誤り、規範から外れる言い方
というのは、
規範文法が生まれる以前にはなかった概念なの
です。