バブル期の新卒ブランドを捨て敢て茨の道を進んだ男の話(その5)

静岡の日本語学校で3年勤めた後、ちょうど2000年に
私は今の勤務大学である別府大学に転職しました。

それまで別府大学では、日本語別科はともかく
学内で外国人に日本語を専門に教えるところはな
かったのですが、

私が入ったことで、大学(厳密に言うと当時の国文学科)は
学内の留学生に対する日本語教育を一手に行う日本語課程
(現日本語教育研究センター)を立ち上げ、

同時に、日本語教員養成課程も立ち上げ、

私は両方のコース・カリキュラム構築に携わることに
なりました。

私としては、大学勤務は初めてでしたので、大学という
もののシステムもよくわからないまま、

日本語学校のやり方をできるだけ取り入れ、それを大学
仕様にカスタマイズしながら、手探りでシステムを作っ
ていきました。

それから、別府大学は留学生の受け入れを積極的に
進めていきました。

それに伴って日本語教育研究センターの規模もどんどん
大きくなり、

たかだか学生数2000人ほどの小さな大学に、多いとき
で5クラス、受け入れ留学生が1学年100人ほど、

講師も専任・非常勤あわせて20人という大所帯になり
ました。

教務だった私は、全クラス全授業の教材とその進め方、
1回ごとの授業の中身まで、全部スケジューリングし、

毎学期、A4で50~60ページのマニュアルにして職員会
議で配布し、レクチャーしていました。

当時、日本語教育センターでは、1クラスで週15コマ
の授業をしていましたので、

15コマ/週×5クラス×半期15回=1125回

つまり、毎学期1125回分の授業の中身をスケジューリ
ングしていたことになります。

加えて、20人全ての教師のシフト表も1人で作って
いました。

また、当時は朝から夜までキャンパス中を走り回って
いましたので、他の教職員から、

「篠崎が歩いているのを見たことがない。」

とよく言われました。

実際、研究室の自分の椅子に座ることは、着任して
から5~6年はあまりなかったと思います。

ある夜、寝ている時に突然呼吸困難になって、
翌日病院に行ったら狭心症と診断され、

その翌日からニトログリセリンを舌の下で
転がしながら、相変わらず走り回っていたのも
このころです。

当時は、とにかく目の前の仕事をこなすのに
精一杯、無我夢中でやっていて、

大学院時代のように、自分に自信がないとか
なんとかと考える余裕すらありませんでしたが、

今振り返ってみると、その時には日本語学校
の時とは比べ物にならないほど、

知識やスキル、マネージメント力、効率的な
仕事の進め方など、

さまざまなことを身につけることができました。

そして、いつの間にか自分に大きな自信が
ついていました。

あの時の苦労に比べれば、今の仕事量なんて
なんてことはありません。

思えば、今は「働き方改革」で、あまり頑張ら
ないほうがいいような風潮もありますが、

それがスタートラインの今の若者は、かえって
気の毒だなと思います。

将来必ず、何らかの形でしっぺ返しに会う
可能性が高いと思うからです。

20代、30代、あるいは新しい分野に飛び込んだ
だら、

モノになるまで寝食忘れて仕事に没頭・没入する
時期がなければ、

その仕事の意義や面白さ、ダイナミックさを
味わえないだけでなく、

今以上に40代、50代になってリストラの対象に
なるリスクが高くなるのではないかと思うので
すが、どうなんでしょうかね。


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